ブックタイトル広島市立広瀬小学校創立100周年記念誌

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概要

広島市立広瀬小学校創立100周年記念誌

11 明治41年5月1日、廣瀬尋常小学校が誕生します。場所は、現在の広瀬北町5番地付近。天満川のすぐ近くに建っていました。 初代校長は中野信房先生。大正8年まで勤められました。鼻の下の立派な白いカイゼルひげが威風堂々とした厳格さを醸し出し、しかしなぜかユーモアも感じる初代校長先生です。そんな中野校長先生の人柄と教育思想が垣間見える昭和34年の新聞記事をご紹介します。 (中略)原爆で講堂を焼失した同小にこのほど新しい講堂が落成したというので、教え子たちがこのほど同氏を横浜から呼び米寿の祝を兼ねて歓迎祝賀会を催した。集まった教え子が40人、この中の最年長が63歳だが、恩師の中野先生、ことのほか若ぶりとあってどっちが教え子やら分らぬ始末。失礼な話だが、お年がお年だけに会うまでは果して話がうかがえるものかどうか不安を感じていたが、会ってみて驚いた。初めから終りまで話に一本のスジが通っているし声も50代の若さ、それに記憶が確かだ。「(中略)わたしの主義は実践示範の教育ということです。」と手きびしい。明治41年、今の広瀬町も当時は広瀬村で広島市外のひなびた所だった。そこへ小学校ができ、中野氏の教育思想が着々と実を結んでいったわけだが、小学校を卒業すると中学へ進学するごく少数の生徒を除いて教育の場所が全然ないというので中野校長は“青年矯風会”と“女子静清会”をつくり単なる修練だけでなく夜学の門戸まで開いた。これが広島市の青年団の開祖。“そうせよと口でいうよりこうせよと、して見せるこそ教えなりけり”これは中野さんが校長時代に作った歌。政治家や教師自身が実行で模範を示せば大衆も子どもも自然に感化されるというわけだ。 (中略)健康の秘訣を聞いてみると「特別な食療法はしていないが、精神的、物質的すべての面でひかえ目にしているからだと思う。食物でいうなら腹八分というところですね。」タバコは飲まず、酒も少量程度。昭和34年4月7日(火)中国新聞 コラム「録音室」より抜粋  当時88歳