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概要

語りびと

36たちは、黙ってつっ立っていた。 次第に足の力の抜けていくのがわかった。 「おとうさんは、まだ出勤しておられませんでした。 いつもここには八時三十分頃でしたから、紙屋町あたりではないでしょうか。」と気の毒そうに言い、「総監もなくなられました」と言って忙しそうに中に入って行かれた。 私たちはへなへなとする体を叱りつけるようにして立ち上り、紙屋町の方に歩いた。 焼けただれた電車の中におり重なっている真黒な死体は男女さえ区別がむずかしい程だ。 死体をひとりずつ見て歩いているうちに、何時のまにか、母とは別々になってしまっていた。 迷い子になったという一瞬の不安はあったけれど、私は探すことを止めなかった。 どの位歩いただろうか。 もう日は沈みかけたので疲れ切った足を引きずって帰った。 母もまもなく帰ったが父の姿を見つけることは出来なかった。 妹たちは泣き出した。 「どこかに生きとってよね」と慰めながらも不安は押えることができなくて、一緒になって泣いた。 翌日も夜の明けるのを待って私はまた広島に出た。 私は恐ろしさを全く感じないで死体の街を歩いた。 死体から生まれた蝿の大軍が、みつばちの箱をひっくり返したように私たちにまつわりつく中をたゞ歩いた。 死体だと思う人に足をにぎられ「水、水」とうめくように言われたあの声紙屋町付近の様子(米軍撮影)